東京藝術大学体育研究室

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2015.7.17
ことば(6)

 ことば(6)

 「稽古とは、自分自身の狭い技術論に執着するのではなく、(まだ見ぬ自分)を引き出すために心と身体を解放状態にもっていくことではなかろうか」

 昨年11月の東京、今年5月の京都と一次審査は合格するのだが、二次審査になると見るも無残な立ち合いになる。なぜか技を出せない。身体が「金縛り状態」になって動かないのである。相手がどうこうではなく、心も身体も勝手にバタバタして、結果自分の弱点を晒してしまう。
「地力がない」と言ってしまえばそれまでだが、二次審査になった途端、「さぁ、打ってこい!」という気構えも、自分のリズムで「先」をかける攻めも出来ない。何となくビクビクしてしまう。要するに自信がないのである。
 明らかに戦う以前の問題であり、ある意味で、自分の中にいる「敵」に負けてしまっているのだ。落ち着いて立ち合うためにも、この「自分の中にいる敵」に向き合うことから始めなければならない。もう一度原点に返って、構えから見直してみた。
 
 構え:腰を立て腹と背の一体化
    左膝を折らない
    左足踵を踏みしめる感じ(つかない)
    右膝を楽に、やはり踵を紙一枚浮かせる感じ
 下肢:踵が生きてることで、右膝から前に踏み込む
    下肢が先行する身体(意識・感覚)
 上肢:肩の力を極力抜く
    左手の前方への突き出しに催されて、右手が
    動き出すような身体(意識・感覚)

 同時に、あまり「攻め崩し」を意識せず、この構えのまま入る稽古を心がけた。「攻め崩さねば」という強迫観念が、かえって自分の力みや無謀な打ち方につながる部分があるのではなかろうか。
 言い換えれば、構えを崩さずにいつ、どこへ打ち込むかわからない打ち出し方の工夫である。いわば打ち出す「気配」を消すことに集中することによって、「こう打たねばならない」とか、「この機会に打たねばならない」とかの雑念(自分の中の敵)におびえなくなるのではないかと思うのである。
 剣道の稽古とは、自分自身の狭い技術論に執着するのではなく、「まだ見ぬ自分」を引き出すために心と身体を解放状態にもっていくことではなかろうか。常に師の教えをまっすぐに受け入れ、次の世代に伝えていく。そこに剣道の文化性もある。
 徒に人に何かを求めないで、今の自分の心身を謙虚に精一杯磨くことだ!久しぶりに師の声が遠くから聞こえた。

「剣道を習うこころざしのこと」

剣道を習うということは自己を習うということである
自己を習うということは、自分を放下するということである
身も心も剣道に投げ入れて
剣道の方より催されて無心に生きられるようになるならば
初心の稽古は最初の剣道なり
最初の剣道は最初の稽古なり
最初の稽古、最初の剣道は始めありて終わりなし
道環して断絶せず
修証一如なり

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ことば(6)

 ことば(6)

 「稽古とは、自分自身の狭い技術論に執着するのではなく、(まだ見ぬ自分)を引き出すために心と身体を解放状態にもっていくことではなかろうか」

 昨年11月の東京、今年5月の京都と一次審査は合格するのだが、二次審査になると見るも無残な立ち合いになる。なぜか技を出せない。身体が「金縛り状態」になって動かないのである。相手がどうこうではなく、心も身体も勝手にバタバタして、結果自分の弱点を晒してしまう。
「地力がない」と言ってしまえばそれまでだが、二次審査になった途端、「さぁ、打ってこい!」という気構えも、自分のリズムで「先」をかける攻めも出来ない。何となくビクビクしてしまう。要するに自信がないのである。
 明らかに戦う以前の問題であり、ある意味で、自分の中にいる「敵」に負けてしまっているのだ。落ち着いて立ち合うためにも、この「自分の中にいる敵」に向き合うことから始めなければならない。もう一度原点に返って、構えから見直してみた。
 
 構え:腰を立て腹と背の一体化
    左膝を折らない
    左足踵を踏みしめる感じ(つかない)
    右膝を楽に、やはり踵を紙一枚浮かせる感じ
 下肢:踵が生きてることで、右膝から前に踏み込む
    下肢が先行する身体(意識・感覚)
 上肢:肩の力を極力抜く
    左手の前方への突き出しに催されて、右手が
    動き出すような身体(意識・感覚)

 同時に、あまり「攻め崩し」を意識せず、この構えのまま入る稽古を心がけた。「攻め崩さねば」という強迫観念が、かえって自分の力みや無謀な打ち方につながる部分があるのではなかろうか。
 言い換えれば、構えを崩さずにいつ、どこへ打ち込むかわからない打ち出し方の工夫である。いわば打ち出す「気配」を消すことに集中することによって、「こう打たねばならない」とか、「この機会に打たねばならない」とかの雑念(自分の中の敵)におびえなくなるのではないかと思うのである。
 剣道の稽古とは、自分自身の狭い技術論に執着するのではなく、「まだ見ぬ自分」を引き出すために心と身体を解放状態にもっていくことではなかろうか。常に師の教えをまっすぐに受け入れ、次の世代に伝えていく。そこに剣道の文化性もある。
 徒に人に何かを求めないで、今の自分の心身を謙虚に精一杯磨くことだ!久しぶりに師の声が遠くから聞こえた。

「剣道を習うこころざしのこと」

剣道を習うということは自己を習うということである
自己を習うということは、自分を放下するということである
身も心も剣道に投げ入れて
剣道の方より催されて無心に生きられるようになるならば
初心の稽古は最初の剣道なり
最初の剣道は最初の稽古なり
最初の稽古、最初の剣道は始めありて終わりなし
道環して断絶せず
修証一如なり